昭和五十四年五月二十五日 朝の御理解
御理解第八十四節 「おごりがましいことをすな。ものは、細うて も長う続かねば繁盛ではないぞ。細い道でも、しだいに踏み広げて通るのは繁盛じゃ。道に草を生やすようなことをすな。」
どういう所から、驕りがましい事になって来るのだろうかと、やはり“私が”と、ね、言うような私が、が、強いと驕りがましい言動、言う事もする事もそう言う事に、なってくるのじゃないだろうか、と、ね。
私がして何故悪いか、と、ね、当然、私が言うならば私が儲け出したのだから、私が贅沢するのは、誰にはばかる事もない、といったような所から、ま厳密に言うと、そう言うふうになるのじゃないでしょうか
昨日は秋山さん所の宅祭りにおかげを頂いて、まあ、それがどこまで本当の事を頂けておるか、わかりませんけれども、泉尾の先生の大変難しいお言葉を、使われて仲々分からない床が多いのですけれども、中に「あっての自分」と言う事をいつも使われます。わかりませんでした。意味が、ね、あっての自分。いろんなお話が出てくると、結局は、あっての自分なんだとこう言うふうに言われるんですね。どういう事か分からなかったけれども、昨日、ふっとその事をハハア、あっての自分と言う事は、こう言う事ではなかろうか、と言うてお話を皆さんに聞いて頂いたんですけれども。
神様あっての自分と言う事、言うならあなたあっての私と言う事ね。そこに問題、難儀、そのあっての自分だ、とこう言う事、ね。
自分あっての神様、私あっての、お前だというのではないか。ま、そう言うふうに私は気づかせて、頂いたんです、ね。そう言う事になってくると、例えば驕りがましいといったような、心は段々ひそんでくるんじゃないでしょうか。それを厳密にしていくととても、驕りがましい事になってくるなじゃないでしょうか。
昨日、一昨日、が大塚のおばあさんの告別式がございました。八十五才でその前日ですか、昨日、おととい、さきおととい亡くなられて、してその翌日が告別式で昨日、子供さん方が皆、大塚さんの御長男夫婦、それに行野さん、林さん、それにおばあさんがいつも願い続ておられた、御孫さん達まで皆、一緒にお参りになりました。
もう、本当に、私も申しました事でしたけれども、もうお話を聞けば聞くほどにお礼申し上げる以外はないですね。と言うて亡くなられる前日の朝の、御祈念に参って来ておられます。勿論、顔色が悪かった。もう、お食事がいけない。ね、でもお参りして見えておられる。で、その亡くなられる朝の御祈念には、もうそれこそ願い続けておられた、息子さんがいつもここまで送って来られるんですよね。自動車で、で、自分は自動車の中で待って「ばあちゃん、あんただけ参ってこんの」と言うようなふうだった、らしいんですけれども、昨日の朝、翌日亡くなられる朝のは、息子さんとそのよめさんと、それから林さんとでしたかね、四名かでお参りになりました。
今日はなら、私が参ろうと言うて息子さんがお参りになろうとしたら、その嫁さんの方が、なら私も一緒に参ろうと、言われたら、おばあちゃんがね「あんたまで、参ってくれるの」と言うて、大変喜ばれたと言う事です。もう、とにかく、そして親先生によろしうと、亡くなられるまでがそうだったそうですね。
一見、そう深く、広く、信心賀分かっておられるとは、思いませんけれども、やっぱ長い信心を頂いておられますから、こう言う説きに信心が物言うな、とわたしはしみじみ思わせて頂きました。その前二十日の吉井の共励会の説きにも、どうでもお参りしたいとこう言うておられましたけれども、やっぱり身体が少しきつかったんでしょう。それで、もう沢山花をしたてておられますから、花を切ってそして吉井の熊谷さんの所へお供えしてくれと言うてことづけられたと言う事。
もう、とにかく医者にはかからんと、言うておられるけども、段々、やっぱり悪いですから、その朝のお届けに、医者にもかかられたがよかろうと、言う事で救急車ば呼んで、来たのと、お引き取りを頂かれたのが一緒であったと言う事ある。もうこんな、その、ま、死に方ですね。お国替えの状態を、まのあたりに見せて頂いて本当に、日頃の信心のおかげと言うものを、思わずにはおれんと言うて昨日は皆でお届けの中に、それぞれそんな事を言うておられます。ね。
まあ本当に親先生のおかげで、親先生のおかげでと言う事は、そのまま神様のおかげで、神様のおかげでと言う事でございましょうが、どうぞ親先生に宜しう、と言う事は、神様にも宜しうと、言う事でありましょう、ね。それがどこまで、んならば今日の言う、あなたあっての神様、親先生あっての私と言う事が、ま、あるかはわかりませんけども、ね。それが内容としてあっておるからこそ、そう言う神乍らなおかげが頂けたんだと言う本当に、最後まで願い続けられた。それが亡くなられる、その朝に成就すると言う。昨日その息子さんが中心になってのお礼のお届けでした。これからのあなた方の御信心が、いよいよ霊様も喜ばれる事だから、と言うて申しました事ですけれどもね。本当に言うならば最後の願いと、言うものが、もう言うなら、もう、その場に成就していくと言うところから思うてみても本当に神様によろしう、親先生によろしうと言う、その内容が、ね、言うならいよいよの時には、親先生あっての私と、言うようなものになっておるのじゃないか、と言うふうに思うのです。ね。
医者でもなからなきゃ薬でもない。もう神様にお縋りするより他ない。もう、あなたあってのと、言うようなもので、ところから、今言う、そんなもう、なにも言えんそれこそ神々しいまでのお国替えのおかげを頂かれた、と言う事なんです。
今日私はその、驕りがましい事をすな、と言う事に焦点を置いて、皆さんに分かって頂こうと思うのですけど。私達が言っておる神様、私達が言うておる親先生と自分との、言うなら関わりあいにおいてです、本当に、あつての自分だと言う事がどの程度に分からせて頂いておるだろうか。言うならば親先生あっての私、と言う事になったら、答えはその親先生の言われる事には背くわけにはいかん、と言う事。聞かんわけにはいかん、と言う事になってくるのじゃないでしょうか、ね。
自分が先に、自分があって親先生があるから、ね、平気で信心をおろそかにする事も出来れば、教えを行じ守ることもない、ね。結局、自分はこうやって熱心にお参りさせて頂いておるけれども、果たしてそのところが神様あつての自分である、と言う事がどの程度の深さをもっておるかと言うものをね、一つ思うてみなければいけません。
そして、ま泉尾の先生の、どこまでその、御神意と言うかその御信心の深さと言うものには、まわかりませんけれども、初めて昨日、それが少うし分かり得たような気がした。
あっての自分、一向に分からなかった。けれども、そこには、はっきりと神様あっての自分だと言う信心が打ち出されて、しかもその神様との間に交わされておるところの、情念と言うものがいつも素晴らしい、有り難いと言うコントロールが出来ての交流である。そこに、あの泉尾の御比礼があるのだろうと、言うふうに思わせて頂きました。
昨日、秋山さん所の宅祭りで御神前に出らせて頂いた、途端に頂きました事でしたけど、昨日、秋永先生がすぐ傍の御直会の時に座っとられたから、話した事でしたけど、「 私はどげん考えたって、毎日、不思議で、不思議でたまらんがの」と言うて話ました。どういう所が例えば今までに、ずいぶん聞いてきた言葉とか、又は昔から言い伝えられておることとか、と言うような事ならば、ま、暗示的にね、心の中に響いてくると、言うような事も思い出すような事があるかもしれんけども、全然、そんな事全然、きいた事もない。
学院で、或先生が合楽の先生は新しい言葉を、製造する名人だと言われたと、言う事ですけれどもね。もう合楽には新しい御理解の、素晴らしい、言わば、天然地念、と言ったような言葉がね、辞書を引いてもないような言葉が沢山あるでしょう。それを昨日、私は秋永先生と話たんですけれども、どげん考えたっちゃ不思議がのと、言うて座った途端に頂いた事が『いわしのしょんべん』と頂いたんですよ。そげん、いわしが、しょんべんするとも思われませんけどもね、確かに、『いわしのしょんべん』と言う。
そこでなら、日頃頂いておる、いわし、と言う事は言わん、と言う事である。ね、言うなら黙って治める、と言う時に頂くお知らせである。ね。
だから私が、根っからの商売人ですから、その、しょんべんと言う事はすぐ気がつく。これは、まあ、商売人の陰語ですけれどね。しょんべんした、とこう言うのです。約束を破ったと言う意味の時に使うんです。ね。
ですから、もう、それこそ黙って治める、黙って治める。もう、土の信心に極まった。と言いながらも確かに段々おかげを頂いて、ドッコイ、とこう力まなければならないような事は、言うなら大きな事は出来ておるかのようにありますけれども、小さい、小さい事柄の場合に、うかつにそれを言うてしもうたりね。言うならば水も漏らさんと、言う信心がそういうところから、漏れておったんだな、と言うようにね。今、塗板に掻いてありますように今日からは、この信心で行きます、と言ったような意味の事が書いてあります。昨日頂いたね、もう言うならば黙って治める、と言うような事にでも、徹すると言う、言うならばそれは根、一つの実験である。ですから実験必ずしもすぐ、そこに良い答えが出るとは思われない。場合には度胸がいる。命がけと言ったような事すらもある、ね。
実験をしてみて確かに、これが大きなおかげを受けられる元。信心の徳を受けるのはこれだと言うふうに、それを実験の上から一つ、ね、実証の出来る所まで、この信心でいきたい。と言うて昨日、まあ、もうしましたですね。コントロールのことね。それから一切を有り難しなのですから、そこには、どうしてとか、ね、不足がましい、言うなら相手を責めると言ったような、言葉は使わんでよい筈だと、そういう小さい所にも一つ徹してみよう。と言うのが昨日の御理解でしたよね。そして本当に徹してみると、もう本当にうかつである事、目のあらい事にあらためて気がついたと言う話を昨日、秋山さん所でもお話をさせて頂いた事ですけれどもですね。その気になって目細うと言う事になるとね。しかし、これは言うとが本なこつじゃろ、ここは、と言うような事にも、なってくるのですけれども、何でもなかろそうにありますけれども、そこから言うならば、それこそ蟻の一穴から水が漏れるように、おかげのうけられない元が、出来ておったのじゃないか、と言うような実験に昨日から入っておるわけでございます。ね。
そして、そう言う信心を、身につけていくとその根本ともなるものはです、ね、我が出てはならない。結局、あっての自分、と言う事からね、例えば神様の仰せに従わずには、おれないものになってくる。神様あっての私、神様がああ、言うて下さるのだから難しい、仲々、油断は出来ない。それこそ、目細ういく、と言う事は難しいようだけれども、あなたが言うて下さる事だから、とそれを行の上にも表わしていく事が出来るでしょうし、勿論、驕りがましい事などは出来ない私と言う事にも気付き、わからせて頂く事だろうとこうおもいます、ね。
そういう、言うならば目細ういくと言う事が、今日の御理解の、ね、細うても言うなら目細う続かなければ、と繁盛でない、と仰る。目細ういくと言う事が道に草を生やすな、と言うような、言うなら信心が頂けるのじゃないかと言うふうにおもいます。「どうぞ。」